ところで、完璧主義者は、何かと批判が多いですよね。まあ、何事も極端な例というのはよろしくないわけでして、そういう意味では、それは当然の結果と言われればそれはそうなのですけど、そのことを勘案しても、人間の持つ本来的な傾向と併せもって考えた際に、それにも重要な利点があると私は思うのです。
今回はそんなお話しです。
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□完璧主義 - Wikipedia
完璧主義(かんぺきしゅぎ)とは、完璧な状態を目指す考え方や、精神状態のことである。このような思想を持ったものや、そのような心理状態の者を完全主義者、もしくは完璧主義者(perfectionist)と呼ぶ。その程度によっては、精神医学では精神疾患のひとつともされることも多い。
問題点と症候群
自身の理想に追いつけず、妥協も出来ないまま悩みとして抱え込むケースも多い。完璧主義の人は、完璧にこだわっているわけだが、当人の人生全体を大局的に見ると、本人がこだわって目指している状態とは正反対に、人生が破綻してしまっている人も多い。また、様々な精神病理を引き起こすことが多いことが知られている。
例えば、完璧主義の人間には、先延ばしの泥沼に落ち込んでしまう人もいる。「完璧にできるようになるまで人前で(評価する人の前で)見せたくない」「完璧な点数がだせるようになるまで○○に参加したくない」などという思いにとらわれて、最初の一歩が踏み出せなくなるのである。結果として経験や練習することが少なくなり、なかなか技量が上がらず、本当の実行の段階には永久に移れない、といった悲劇も起きる。また、他のもっとおおらかな人たちが、たとえ質が低くても気にせず気軽に第一歩を踏み出し、失敗することすら楽しみながら経験を重ねて、結果として無事に技量を上げてゆくのを、完璧主義者は指をくわえて眺めつづけて、自分自身を責めることになることも多い。
まったくもってひどいいわれようですね(笑)。でも、まあ、確かに、そう言われればそうかもしれないと思うところもなくはないですよね。
この種の問題は、「潔癖性」と同じ問題があって、思考が極端な傾向を示すところに問題があるわけですが、でも、「だから、何事も中庸がよいのだ」と安易に儒教的に結論づけるのもまた私はどうかと思います。
というわけで、今回は、「完璧」さを追究することによって得られるメリットについて、人間が往々にして持つ傾向の問題と絡めて考えてみたいと思います。
1.「妥協」のもつ本当のデメリット
完璧と相容れない言葉として「妥協」という言葉があります。
私は完璧主義者ですが、「妥協」についてよく世間一般がもっているような悪いイメージは持っていません。「妥協」とは、人間にとって、社会にとって、必要不可欠で有益な要素だと思うからです。
まあ、その話をすると長くなるので、その点については、また別の機会にでも触れることにしたいと思いますが、そういうメリットをもつ「妥協」にも、もちろんデメリットはあるのでして、それがときとして看過できないことがあるということを私たちは自らの経験から知っています。
例えば、自分にこなさなければならないタスクがあったとして、「今日はここまででいいや」といった具合に「妥協」することによって、(場合によっては)それが結果的に自らに甘えすぎることになってしまって、間に合わせなければならない「締切り(Deadline)」に間に合わなくなってしまったというのは、誰しもが経験するところですよね。
でも、ここで重要なことは、この本当のデメリットは、「(今回の)締切りに間に合わなくなった」ということではないという点だということに注意が必要です。
つまり、妥協によってもたらされる本当の不利益というのは、
「今回(それ自体)の失敗」ではなく、
「妥協することに慣れてしまうこと」なのです。
2.「割れ窓理論」について
さて、ところで、前ニューヨーク市長のルドルフ・ジュリアーニさんは、先日のアメリカでのテロ、911で世界的に有名となりましたが、それ以前にも「ニューヨーク市の治安回復」において、「割れ窓理論」を実際に実証してみせたことでもみなさんにお馴染みですよね。
□割れ窓理論とは - はてなキーワード
割れ窓理論「Broken Windows Theory」は米国の心理学者であるジョージ・ケリング(G.L.Kelling)博士が提唱。建物の窓ガラスが割れたまま放置されていると、管理人がいないと思われ、凶悪な犯罪が増えるという理論。ニューヨーク市では地下鉄の無賃乗車や落書きを「割れ窓」に見立て、これらを徹底的に取り締まった結果、劇的に犯罪が減ったとされる。
この「割れ窓理論 Broken Windows Theory」については、様々な批判がありますが、私は、一応の合理性があると思っています。
割れ窓理論とは、簡単に言えば、窓ガラス一枚が割れただけだからといって、割れた窓をそのまま放置しておくと、心理的に「もう既に窓ガラスが割れているのだから、他の窓ガラスを割ってもいいんじゃね」という気持ちになって、結局、全部の窓ガラスが割られるというものですね。そして、窓ガラスが全部割られてしまうと、「窓ガラスが全部割られているのだから…」とだんだんエスカレートしていくというわけです。
だから、窓ガラス一枚といえども、割れたらすぐに張り替えて、事前の犯罪抑止につなげようという話になるわけです。まあ、要は、ゴミが全然落ちていない清掃されたところでは、ポイ捨てが起きにくいことと同じようなものですね。
それで、これと今回の「妥協」の話がどういう風に関係あるのかというと、(もうお気づきの方も多いと思いますが)中途半端に妥協を赦してしまうと、そのシーンだけを見てみれば大したことがないことでも、多くの人間はそれが常習化してしまう傾向にあるので、長い目で見れは非常に好ましくない結果を巻き起こしてしまうのではないかというわけです。
つまり、
(1)仮に、「割れ窓理論」が正しいとするならば、ちょっとした「妥協」を許してしまうとそれがだんだん蓄積され結果として重大な「妥協」となってしまう恐れがある
(2)「妥協」には人間を誘引する非常に強く甘い誘惑性がある
というわけですね。人間は誰しもそんなに強くはないものです。
3.「完璧」性のメリット
そして、ここで、前述の「完璧」性のメリットが生まれるわけです。
ここで重要なのは、もちろん、
「完璧にタスクをこなすことそれ自体」にあるのではなく、
「完璧にタスクをこなそうとする姿勢」にあります。
「妥協」が行われるのは(それが一般的な事象として認められるのは)、現実的にはそれを「完璧」に行うことは往々にして困難であることに起因します。ですから、そのような事象について「完璧」にしようとすることは、(場合によっては)無理があるのでして、それを完璧主義者のように文字通り完全な「完璧」さを追究することはやはりナンセンスともいえるでしょう。むしろ、逆にそこにこだわったら、先ほど記述したとおり、本当に病気になってしまいますね(笑)。
だから、その両者の「妥協」、つまり「中庸」である「完璧を目指す姿勢で物事を完璧に行わないという妥協」が最も賢明な策ではないかと私は思うのです。
以上のことをもっとくだいて言えば、「現実的な妥協の線はここだから、合理的に考えてここら辺で切り上げるのが賢明だ」と考えてしまうと、(それはもちろん、非常に現実的かつ賢明な判断であるのですが)人間の持つ本来的な傾向を考えるとだんだんパフォーマンスは落ちてしまう傾向にあるわけですから、そう考えるのではなく、「ああ、ダメだ。今日はここまでしかできなかった。まだまだダメだな。明日はもっと完璧を目指してやろう。」という心持ちの方が長い目で見れば良い結果をもたらすのではないかというわけです。精神論というわけではありませんが、気のもちよう、姿勢というのは重要だと私は考えています。
そして、もし仮に、私の意見に一定の合理性があるのでしたら、完璧にも重要な利点があるということになりますよね。私は、そういう姿勢が大事だと考えているのです。
さて、みなさんはどうお感じになったでしょうか。
今回は以上で終わりです。
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