私は、ミステリアスなものが大好きなので、そういうTVや書籍の特集ものなどがあるとすぐに興味を持ちます。要は、私はそういう不思議なものの存在を「信じたい」タイプの人間なのです。
ええ、そうですね。「信じている」のではなく「信じたい」のです。
不思議なものに興味を持っているのですが、私はいまひとつ本気で幽霊の存在が信じられないのです。
それには、こういう理由があるからなのでした。
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1.幽霊って一体なに?
「一体、幽霊とはなんぞや」と改めて考えてみると、これまた難しい問題です。
そもそも、それは、実際に、霊を見た(体験した)人にしか分からないという性質をもつものなので、私のような霊能力のない凡人にはそれを体験するまで永遠に分からないということになります。ですから、私がこれを語るとき、それはすべて推測でしかないということになります。
そんなわけで、私は、先ほど述べたように凡人ですから、ここからはすべて推測となってしまいます。
この点がこの問題の難しいところですよね。
2.霊が見える人は大変だ
さて、このように、私は伝聞でしか物事を判断する術がないので、人の話から見てみたいと思います。
まず、人の霊を見たことがある人たちの多くは、例えば、幽霊とは、「生前、信じていた人に裏切られて成仏できない怨霊だ」とか、「この世のものとは思えない憎しみを残したまま現世を去った者だ」とかよく言いますよね。この世に未練を強く残した者は成仏できず、現世にとどまるというわけです。
これは割とオーソドックスなものだと思います。
これをもとにしてちょっと考えてみると、一つの疑問が浮かびます。
さて、いま現在、アウストラロピテクスから人類はどのくらいの数が生まれてきて、そして、亡くなったたんでしょうね?ちょっと正確な数字は分かりませんが、きっと天文学的な数字となることは想像に難くないような気がします。
そして、それらのなかでそういう怨念を残すような死に方をした人の割合って一体どれくらいなんでしょうか?仮に、基準として「浮気をされて理不尽に殺された人が霊になる」とすると、全体に対してどのくらいの割合となるのでしょうか。
ここで仮にその割合を「1万人に1人」くらいだとすると(これでもかなり低めだと私は思いますが)それは膨大な数にのぼるような気がします。
仮にこれが正しいとしたら、そのような数の人が町中をウロウロするわけで、それはもう、霊が見える人は大変ですよね。行くところ行くところ、まるでちょっとしたラッシュ時の山手線のようです。
そして、さらに関ヶ原などの旧戦場跡地に旅行に行こうものなら、その数はすごいものになるわけで、そうなるとその人混み(?)をかき分けて歩かなくてはいけなくなってしまいます。
これは本当に大変ですね。もう、珍しいとか言うレヴェルではないような気もしたりします。
3.人間だけが特別なんじゃない
まあ、まだ、それだけなら(幾分かは)ましなのですが、人によっては、霊というのは、ネコとか、犬とかもその対象となっています。いわゆる、化けネコとかいうやつですね。
私はそれは非常に正しいことだと思います。そりゃ人類中心主義はいけませんからね。きっと、ネコや犬だって、意を得ず悔しい思いをしながら死んでしまったものもかなりの数いるはずです。
そうだとすると、ますます、この世は混みますね。
さらに言えば、ネコとか犬とかが霊となるのであれば、きっと他の動物、昆虫、植物だって、悔しい思いをして死んでしまったものもいるでしょう。人間の愛玩動物だけ特別扱いするのはよくありませんよね。
例えば、牛とか、ウマとか…人間に理不尽に切り取られた木とか…
そうなると、もう歩く場所もありませんね。文字通り、身動きがとれないわけです。
ここで恐ろしいのは、例えば、蚊とか子供をたくさん産むような生き物です。蚊だって、裏切られて死んでしまったものだってきっといるでしょう。輝かしい将来を夢みて生まれてきたのに、理不尽な形でその生涯を終えることになったものもきっと少なくないでしょう。
そうなると、もはやそれだけで兆とか京とかの単位ではすみそうにもありませんよね。霊が見える人の気持ちを考えるといたたまれなくなります。元来、昆虫などの虫が苦手な方はきっと生き地獄のようでしょうね。
4.絶滅してしまった生き物にも出会える幸せ
そして、最も私が疑問に思うのは、きっとアルゼンチノサウルスとか、アンフィコエリアスとかいった大型の恐竜だって、ときとしては奥さんを奪われて殺されたりするのでしょう?そりゃそうですよね、恐竜だって人間と同じような生き物ですから。人には人の、恐竜には恐竜の事情があるってものです。
となると、あれだけ大きい生き物が目の前をウロウロするわけですから、それは、気を遣っていなくても、イヤでも見られるわけで、なぜそういった報告がないのが不思議ですよね。
これは何かの陰謀でしょうか?国家規模の陰謀?
「福井県勝山市で怨恨で死んだ恐竜の霊の足を見た。あれはフクイサウルス・テトリエンシス・テトリエンシスに間違いない。」
とかいうのがあっても不思議ではないわけで。
そうなると、もはや(ある意味)生き証人ですね。
5.むしろ、霊が見える人自身の方が不思議だ
このように考えると、なぜ、霊が見える人は平然と生活が送れるのでしょうか?とっても疑問です。こんなにいろいろ見えたら、すぐにでも精神が病んでしまいそうなのに。
精神力の強い人だけが霊が見えるようになるのかしら。それとも、それを小さい頃からみているとだんだんと慣れてしまうのかしら。
謎は尽きないですね。
まあ、冗談はさておき、仮に、人間しか霊は存在しないのだとするならば、なぜに人間だけがと言う疑問が浮かぶわけです。人間なんて、所詮他の生物と同じで、言葉が話せて知能が発達したただのホ乳類にすぎないのですからね。
人間にしか霊が存在しないというなら、それはそれでいいのですが、それならそれで納得のいく理由が欲しいのです。
6.幽霊という存在はヒトは全てを認識することができるという過信に戒めを与えているのかもしれない
そうはいっても、実際に、見える人には見えているのでしょうから、それはそれで「見えるんだからしょうがない」ということにはなりますが、そうはいっても不思議ですね。
さて、ここで一つの私なりの結論があります。
(別に、私はブッディストではありませんが)もしかすると、世の中は、すべてのものは実は一つであって、「全は一、一は全」みたいな仕組みとなっているのかもしれませんよね。つまり、そういう話です。
ガイア主義主張者のように、物事を大局的に見ることができるのならば、個々の個体として識別できる我々も、大局的に見れば、(まるでヒトの細胞のように)数え切れない数の個体からなる連合体の一つなのですから、我々がその細胞間で起きていることを認識できないこととパラレルに、それはただ単にヒトの認識外であるだけであって、もしそうであるのならば、私たちが認識している世界もまた、本当は不十分な認識なのかもしれませんね。
そうだとすれば、こういう疑問もまた原初的に間違っているのかもしれませんね。
※なんか「純粋理性批判」っぽくなってきて、意味が分からなくなってきましたね(笑)
まあ、結論としては、理性でしか物事を認識できない未熟な私にとっては、上述のような疑問が解決されない限り、心の底から霊を信じることができないというわけなのでした。
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