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 No. 877 エントリー 2009/01/02(金) 01:30:49

[論点 46] 「美術館」が芸術を殺しているという側面もあるよね この記事をはてなブックマークに登録 この記事を livedoor クリップに登録 この記事の livedoor クリップ数

新年早々、実家にある名画集をながめていて思ったことをつらつらと書いてみたよ。

(続きはこちら)




1.「美術館」の生い立ちの捉え方

昔読んだ本で(例のごとくそのタイトルは失念してしまいましたが)、「美術館」の誕生は、市民革命に勝利した市民の既存権力に対する勝利宣言を文化的に誇示するためにあったとかそういった内容の本があったような気がします。

要するに、今まで王様がもっていた美術品を彼らから奪い取り、公のもの(つまり、市民のもの)としたところに、その本心があったという話ですね。


2.パブリックな「芸術」とプライベートな「芸術」

誤解を恐れずに大雑把に言えば、西洋の美術史って、(キリスト教の)宗教画から、宮廷画家による宮廷美術が全盛となって、それが大衆化したといったような流れですよね。そういう意味では、歴史的には、(少なくとも美術館が誕生した過渡期は)美術館の果たした役割というのは、プライベートな作品をパブリックな作品へと変えた点にその意義のひとつが見いだせそうですね。

そして、その流れでいま現在「美術館」というのは、「芸術」という正当性のもと、権威をもって私たちを楽しませてくれているということになっているわけですが、それがいいことか悪いことかは、また話が異なるのであって、別途考察が必要なことでもあったりします。

つまり、「芸術品」はパブリックなものか、プライベートなものかということの議論が必要だというわけですね。

まあ、現在では、大方、「芸術品」はパブリックなものだということになっているので、ことさら考える必要もないことなのかもしれませんが、たまには、当然に見えることを疑ってみるのも面白いのかもしれませんよね。というわけで、この点について考えてみたいと思います。


3.「芸術」は一体誰のもの?

まず、少なくとも、「美術館」ができた頃の作品というのは、非常にプライベートな作品だったでしょうね。その是非はまずは横に置いておくとして、客観的には、もともとプライベートなものとして作られたものをパブリックなものとするわけですから、そこに何かしらの無理が生じてもそれは至極自然なような気がします。
※まあ、「それはもともと市民から搾り取ったお金で雇ったお抱え絵師が作ったものだから、それは本来我々のものだ」といえばそれはそうなのかもしれませんけどね

そして、プライベートの目的をもって作られた芸術を、それがとっても素晴らしいから「人類共通の財産」とするというのは、私はいささか無理があるのではないかなと思ったりします。たまたま上手い作品ができたらその人から取り上げられて「人類共通の財産」となるというのは、見ようによっては結構ひどい話ですよね(笑)。

まあ、冗談はさておき、では、芸術品は一体誰のものかという話になってきますよね。
その人のために作られたごくプライベートなものか、「市民」と称されるパブリックなものか。

私はそれは作った人のものだと思います。私は、少なくとも人類共通の財産といったようなパブリックなものではないと思っています。

そもそも、ものを作る人って、初めから「これは人類共通の財産とするぞ」と思って作っているのでしょうかね。まあ、そんな人は皆無だとはいいませんけど、そういう人は多数ではないような気がします。
具体的に、誰それのイメージを持って作っているんじゃないのでしょうか。そして、例え、職業芸術家だったとしてもそれを売ろうと思って作っているわけですから、それなりの具体的イメージというのはあるはずですね。

つまり、そもそも論として「芸術」品はパブリックなものではないのではないのかというのが私の意見です。

そうであるからこそ、私はその摂理に逆らって美術館という権威が囲って門外不出としているところに不自然さを感じるのです。よくオークションとかで「美術館」ではなく、富裕層の個人が落札すると、「それは芸術の独占だ」と非難する人がいますけど、それが芸術を逆に窮屈なものにしているのではないのかなと私は思うのです。


4.芸術品は消耗品だ?

やっと本題に入ってきました(笑)。
「美術館」というのは、確かにパブリックなものですから、より多くの人がその作品に触れられるという点では非常に優れていると私も思います。でも、その欠点もないわけではないとも思います。

例えば、「美術館」へと行き、ある作品に感動するとしますよね。でも、それが欲しいと思っても、買うことはできないわけです。せいぜい、ぐるりと回った後にある売店でその作品をプリントしたポストカードを買うことぐらいですね。つまり、美術品を身近なものとすることはできないのです。

つまり、そこにある芸術品は身近なものではない、「権威をもった」別の何かだというわけです。少なくとも、生活の一部ではないですね、確実に。

まあ、芸術とはそういうものだといわれれば、「はあ、そうですか」としか返せませんけど、一般的には芸術品とは身近なものとされているのではないかなと思います。そして、プライベートな意図を持ってプライベートに使うために作られたのではないのかなというわけです。

いつも思うのですけど、食事に使えない陶磁器って何なんでしょうね(笑)。昔、先鋭芸術家で「座らせない椅子」とかいう作品がありましたけど、そういう類の話でしょうかね。素晴らしい陶磁器があって、それを神棚にでもあがめて、芸術性のカケラのないセンスのない茶碗で食事をとるというのは私は結構、滑稽に見えたりするのですが、そういうものなのですかね。

そして、もしそこに歪みがあるとすれば、プライベートなものをパブリックに囲ってしまったそのデバイスに問題があるのかもしれませんね。
私は、芸術に権威を与え、芸術と生活を切断してしまったがために、身近なものではない「何か」になってしまったような気がします。

なるほど、確かに、芸術品を個人所有とするとその人が亡くなったりすると毀損、消滅するおそれがありますよね。また、日常で使うとなると損耗もするでしょう。そういう意味では、パブリックなものとする方が保全という意味では優れているような気もします。

しかし、その考えの根底には、(ローカルなひとつの)西洋的な考えがあるのではないかなと思ったりもします。キリスト教的な意味での「永遠」性ですね。

でも、果たして、永遠のものってあるのでしょうかね。東洋人の私にはよく分かりません。
むしろ、私にしっくり来るのは、東洋的(仏教的)な「無常観」ですね。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」みたいな。そして、終わりあるものを無理矢理存続させているところに無理があるのではないかなと感じたりもします。日本的に考えれば、物事は終わりがあるから尊く美しいのではないのかな?私はそう思うのです。

つまり、芸術品は消耗品、消費品であって、身近に芸術を感じる生活が本当の文化的な生活ではないか、そして、それが本来の芸術ではないかと私は思うのです。


おまけ

まあ、とはいっても、私も東京でミレーの落ち葉拾いを見たときは、すごく感動して、美術館っていいなと思ったのですけどね(笑)。修行が足りませんよね。

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